第11回 早坂茂三さんの遺言 その4

早坂茂三さんの遺言4 ふたりの試み「革命」

早坂茂三さんの遺言 4  ふたりの試み  「革 命」

「嘉久治さんを頼みますよ」という言葉が、今これほど重く感じることになるとは、そのときは想像もしていませんでした。

 その夜、早目に仕事を終えると、友人の新関寧さんの運転で飯豊町の保養所「白川荘」に向かいました。日も暮れた飯豊町は街灯も少なく、山沿いを走る自動車もありません。山の奥へ向かうと民家の明かりも無くどんどん淋しくなります。

 ダムの傍から遠くに窓から光が漏れている建物が見えました。そこが白川荘でした。
 小ぢんまりした建物でした。建物の中に入ると保養所に見られがちな雑然さはなく、整然としており清潔な雰囲気でした。

 部屋に案内されていくと、廊下に早坂茂三さんの声が響き渡っていました。その声の感じは、先ほど一緒にお蕎麦を食べたときの早坂さんとは打って変わって、熱く激しい声でした。

 躊躇しながら部屋に声を掛けました。
「ハ~イ」というのんびりとした声と同時に、相澤嘉久治さんの編集スタッフの鈴木さんが顔を出しました。
「井上さん、申し訳ありませんが、今対談中なのでもうしばらくお待ち願いますか」と愛想よく鈴木さんが頭を下げました。そのときも部屋からは「嘉久治さん、それはネ…」と大きな声の早坂さんの声が洩れてきました。

 以前から相澤さんからは、早坂茂三さんとの対談の企画案を聞いていました。
「生まれた時から今日までのふたりの軌跡と活動の検証を、同じ時代背景の中で残していきたい」という相澤さんは、先輩早坂茂三さんから学び影響を受けたのにも拘らず、ふたりの生き方はあまりにも対照的に映ります。

 早坂さんは政治の中枢で革命を試み、一方の相澤さんは東京で日本の文化発信を演劇とテレビで革命を試み、その後は生まれ育った故郷で地方からの文化による革命を試みようとしましたが、そこには大きな障害となる権力が存在していました。相澤さんはその権力者、山形の政治経済のドンへ戦いを挑んでいくことになるのでした。

 先輩と後輩の間ではまったく対照的な生き方のように見えますが、「革命」という点ではふたりのテーマは同じではなかったかと思えるのは私だけでしょうか。

 そしてその革命とは何だったのか?そのルーツをたどる、ふたりには大切な対談だったのではないでしょうか。(私はおふたりからお話を伺っていますので、自分なりの想像で結論を出してはいますが)

 対談が終わるまで、私と私のご学友の新関さん(相澤さんがそう呼ぶ。本人はそう呼ばれることを相当気に入っている)は白川湯船に浸かることにしました。

 11月の夜です。外は寒くなってきました。

 つづく

 2004年7月11日記

追伸 「素晴らしい山形」の再発見を探求する相澤嘉久治さんのホームページ「スペースA」もあわせてご覧ください。
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